いけばな嵯峨御流

平成31年4月号 華務長対談 辻󠄀井ミカ×京都吉兆会長 徳岡孝二

■一流の料理人になるには「お茶とお花」が必須

 

辻井華務長 徳岡会長、今日はよろしくお願いします。いつものように徳岡さんと呼ばせていただいてよろしいですか。(許)ありがとうございます。早速ですが、徳岡さんと母の習っていたお謡の先生が一緒だったご縁でお知り合いになってもう二十年になりますが、今までいっぱいいいお話を聞かせていただいて分かってきたのは、やっぱり日本人の教養というのか、お行儀も含めて日本のありよう、そんなものがあって初めて遊び、楽しいという境地があるのだなあということです。

徳岡会長 そうですね。何から話そうかな。そうそう、僕が生まれ育ったのが姫路の向こうの網干(あぼし)というところなんですが、料理人になると決めた中学一年の時に、神戸の有名な料理人さんに「料理人になるには何を習ろといたらよろしいか」と聞いたら、「花とお茶」と。で、すぐ近所の未生流の先生のところに習いに行って、花はもう中学二年で免状を取ったんです。せやけど、その時分、お花を習ろてるのは大学生や高校生くらいの女性ばっかしでしょ。中学生でしかも男なんて、僕一人しかおらへん。せやから、恥ずかしいて恥ずかしいて。帰りは花を持ってるから、先生の家からすぐ裏に抜けて走って帰りました。(笑い)

華務長 辻井家は祖父から父、私と代々お花をさせてもらっているんですけれど、偉い宗匠のお坊ちゃま方がそっと習いに来られるんですね。お稽古が終わると、花を風呂敷に包んで、何してきたか分からんような顔して帰るんです。

徳岡会長 料理人にはお茶が必須科目なので、吉兆にお世話になるようになって、吉兆の主人のことを「おやっさん」「親父」と呼んでいたのですけれど、そのおやっさんから藪内流の宗匠を紹介してもらい、習いに行きました。梅田の阪急の向かいに稽古場があって、月謝が月四回で二千円。一回の稽古代が五百円ですから、当時としたら大金です。だからもう必死。夜十時ごろ仕事を終わって帰ってきて十二時半ごろまで、電気コンロに薬缶をかけて、毎晩、稽古をしました。そしたら、三ヶ月後に店に後輩が入ってきて、宗匠のところにその子を連れて行ったら、先生が「お前にやるから、お前が教え」って。三ヶ月しか経ってへんときですよ。八月ごろから習い始めて、その年の十二月二十五日に試験があったんです。試験ではどんなお点前が当たるか分からへん。教室に置かれた餅花の中にお点前の種類が書いて入っているんです。それで、餅花をすっと割ったら、たまたまやっていたのが当たって、一服立てて十四分。時間もきっちりやし、古株の二十年、三十年先生らが「おめでとうございます」って言うてくれはるし、自分でも百点満点出たかなと思ってたら、宗匠が「お前ら、あの間違いに気が付かんのか」と。「どっこも間違うてないけどな」と思ったんですけど、高麗橋の茶の間というたら暗いでしょ。上に電灯があって、それで照らして茶碗を見るんやけれど、テストは広間。広間は明るいから自分の方を向けて見てしまって、それだけで三点引かれて九十七点でした。僕が「お前にやるわ」って言われて初めて弟子にした子が九十五点で、その子は先生の色紙がもらえた。僕は薮内の家元の掛物をもらったんですけど、先生の色紙の方が欲しいて欲しいて。

華務長 素晴らしい方との出会いがたくさんあったんですね。お料理に最初にお茶の世界を取り入れたのが湯木貞一さんで、それを正しく継承して、ものすごい影響をお料理の世界に広げて、日本の筆頭だと思います。

徳岡会長 花の方は、親父が去風流という流派の花が好きで、その流派の先生に店にいけにきてもろてました。とにかくきれいな花なんです。今、当店にもその流れを汲む人がいけにきてくれています。この床の間の柳もそうなんですけれど、やはり料理屋には花がなくてはあかんし、華やか過ぎてもあかん。座敷の花は難しい。

華務長 お花は部屋の飾りの一部ではあるんですけれど、床の間にあっては掛け軸があって、花を置く位置はまん真ん中ではなくて端。お花ばっかりが自己主張するのは嵯峨御流風ではなく、ご本尊があってその横にお花があったり、何かがあってそれを引き立てる、調和というのがいけばなの最も大事にしているところです。吉兆さんのところのお花は一輪でも本当に心入れがあって、お料理が生き生きとしますね。

 もちろんお料理が素晴らしいのは言うまでもありませんが、以前お茶事に参加されたお一人が、吉兆さんは「献立をどうやって決めるのですか」と聞かれたときに、徳岡さんのお答えが「そんなんはちゃんとした決まりがあるのではなくて、例えばその季節とか、水の流れとかがまずあって、そこから(献立を)決めていくんや」とお答えになった。マニュアル通りのものではなくて、お料理はいろんな要素が盛り込まれた総合芸術なんですね。

 

■講釈上手の料理下手

華務長 ご本を上梓なさったそうで、おめでとうございます。

徳岡会長 「最後の料理人」という題名らしいんですけれど、あれは、こうやってしゃべってることをまとめてくれはったものなんです。

華務長 口述筆記みたいなものですね。本を作られる方が後に残しておきたいと思われてまとめられたんでしょう。拝見できるのを楽しみにしております。

徳岡会長 僕は(本を作るとか)こういうことをするの、好きやないでしょ…。

華務長 徳岡さんが講師で出られたときに、開口一番「講釈上手の料理下手」と言われるから、どっとうけて楽しかったです。

徳岡会長 料理人というのはしゃべったらあかんと言われていたんです。しゃべったら唾が飛ぶからと。僕は想像もしてなかったけど、唾って一メートルくらい飛ぶらしいですね。「ええ料理人は喋らへん人や」と言われて、喋らへん生活が今でも続いてますねん。せやから人前で喋るの下手や。(笑い)

 

■松は大事です

華務長 徳岡さんは、いいものに対して本当に手をかけて、お育てになっている姿が素晴らしい。さっき入口の門の所で「この門、自分で作ったんや」とおっしゃっておられましたし、何でもご自身で動かれますね。ここの嵐山でも、桜を自らお植えになっていますでしょ。

徳岡会長 皆でお金を出し合うて苗を買うて、鹿に齧(かじ)られんようにぐるりに鹿網を張って育ててきました。三十年経って、やっと嵐山がにぎやかになってきました。

華務長 さすがですね。本当に素晴らしいことです。嵯峨御流に、山から海までの景色を七つに分けて水の流れを写し取った「景色いけ」といういけ方があります。いける楽しさに加えて、景観とか水とか美しいものの命の大事さも伝えていきたいという目的もあって、平成十九年に京都駅ビルで、全国の嵯峨御流の全司所が一堂に集って、その地域の自慢とする風景を「景色いけ」でいけて、日本列島のいけばな地図を作るという「日本をいける」という企画を行いました。実は、この企画には背景がありました。ちょうど松くい虫が流行(はや)ったときで、松はいけばなではもちろん、松なくして日本の文化は語れないというほど大切な存在なのに、あんなに手がかかるのだったら無くてもいいかという風潮が世の中に広まってしまったら、景観もすっかり変わってしまい大変なことになってしまう。それで、私たちは環境を守るために何かできることはないかと考え、美しい風景をいけて、見ていただく方に「自然の風景って素晴らしいな」という気持ちを取り戻していただきたいと、そんな活動を始めたんです。

徳岡会長 それは大事なことです。料理屋やからすぐ食べ物に頭がいってしまうのやけど、松があっての松茸やからね。昔は松茸がたくさん採れるところが近くにもありましたけど、みんなあかんようになってしまいました。残念なことです。

華務長 松くい虫の被害がひどくなった原因は、山に人が入らないようになったからだと勉強会で教えてもらいました。「懸崖(けんがい)の松」と言われるように、松は崖っ縁で岩しかないところに根を張り付かせて、地表に向かって枝を伸ばしていく。松は根に直接水がいかなくても、共生している菌根菌という菌糸がわーと菌糸を広げて栄養を持ってきて松にあげる。それで松は生きてる。だから、松は豊富に水がないところ、栄養がないところの方が元気に育つんです。松は枝も払って燃料にされますし、下に落ちた葉は人が掻(か)き取って燃やして、うまいことリサイクルできてたんですよね。それが山での労働も過酷だし、松なんか使わなくても便利な燃料があるし、人がだんだん山に入らなくなって放ったらかしになると、葉っぱが落ちてそこに水が落ちて、富栄養化が進む。そうすると菌根菌も始終栄養がもらえるものだから菌糸を張らなくなって、過保護でふにゃふにゃの松になる。そんなところへ外国産の松くい虫が木材に乗って日本に入ってきたと。

徳岡会長 松の木はだいたい二十年たったら菌糸が付いて、年に新しく三十センチくらい伸びる。私らも十一月の秋から熊手で全部落ち葉を掻いていました。その後新しい松葉が下へ落ちて、それに菌根菌が宿る。松茸を採るときに「頭を叩いてから採れ」と言われたのは、頭をポンポンと叩いたら白い粉、つまり菌糸が落ちるからなんです。

華務長 今日も松の落ち葉がきれいにお庭に敷かれてますけど、敷き松葉となって麗しくお庭を飾り、苔(こけ)を守る。そんな風に日本の暮らしというのは上手に自然のものを取り入れて美しく生かしてきたんですよね。美しいから人に愛されて。自然のなりたちそのものが人の暮らしの中に、そこに住んでいる人の心に溶け込んでいて、そんな暮らしぶりがあるからこそ日本はきれいな国なんですよね。

 

■お茶の心を取り入れ、自然に感謝しつつその恩恵をいただく

徳岡会長 吉兆に入るまでは、料理屋の親父と言うたら昼前に出てきて、料理長と打ち合わせをして、「ほんなら組合に行ってくるわ」言うて出かけて、夜中に帰ってくる。何人も友達が来はるけど皆そんなんで、料理屋の親父ってほんまに何にもせんねんなあと思ってました。ところが吉兆の親父ときたら、朝から神棚掃除して、お水あげてお酒あげて花入れて、玄関の花いけて、十時ごろに調理場に降りてきて献立を渡して。神戸の親方連中と吉兆の親父さんの態度の違い。僕この人の側で勤めたいなと思いました。ほんまに親父に心酔していたんです。こうやって身内になるなんてそのときは思いもしてないしね。

 親父・湯木貞一という人は、ほんまにお茶を大事にしてはったから、食べ物から花、花入、食器に至るまで、全部お茶なんです。せやから、料理も懐石として、きちっとしたものを作りたいと思ってやっていた。それを僕らは身を以て見せてもろてたから、自分もそう思ってやってました。ところが、親父が亡くなった年、大亀和尚が百六歳で亡くなりはって、中村清兄という京大を二回も卒業して、有職扇子司の中村松月堂を継がれていた方も亡くなり、裏千家の筆頭宗匠の濱本宗俊さんも大本教の出口さんも亡くなり、最後に親父が亡くなった。僕の料理を分かってくれる人が皆、いはらへんようになったと思ったら、急に元気が無くなって。料理に限らず花もそうやと思いますけれど、やっぱり見て褒めてくれはらんと伸びしまへんな。そういう超一流の人たちが褒めてくれはるからよけい真剣になって一生懸命考えるのですから。

華務長 まさにそうですね。花も毎日飾っていると手が掛かるんですけれど、それを見た人が「いいね」って言ってくださる。その瞬間が嬉(うれ)しくてやってるのかなって思います。

徳岡会長 ほんまにね、一生懸命やって褒めてもろたときほど嬉しいことはないですね。それを、分かってくれはる人が亡くなったというのはものすごく寂しい。

華務長 でも、本物をご存知の目が肥えていらっしゃる方、一握りの玄人の方とか、そういうお方が一番怖いですよね。

徳岡会長 十人のお客さんのうち一人分かる人が入ってはると、その分かる人の言うことを皆さん聞いて、「ああなるほど」と理解して、それで広がるんです。以前、アメリカ人の家族がお見えになったときの話ですけれど、隣の待幸亭に入るとまずお父さんが掛物を見て、奥さんとお嬢さん、息子さんに説明しはる。お嬢さんは、夏やったから浴衣着て足袋を履いて、初めから終いまで正座を崩しはらへん。聞くと、中国でずっと仕事をしてはる人やったから、そういう知識をもってはったんですね。そんな家族もあるけど、今ごろの日本人は床の間を見ようともせえへんし、掛物も花ももちろん花器も見はらへん。そういう人を相手にしていたら精(せい)がない。だんだんそういう時代になって、このままやったら「最後の料理人」と言われてもしょうがないかな。やってきたことを分かってくれはらへんということは、一番悲しいね。

華務長 そうですね。虚しくなってくることがありますけれど、ただ、きっかけはいろんなところにあって、何も知らないで来たとしても、このお部屋に入ってこれだけの設いを見て、何も感じない人はいないと思いますし、お茶やお料理のすごさ、そこに至るまでのちょっとしたエピソードを聞かせていただくといったきっかけがあれば、だんだん興味も湧き、そういうことから改めて自分たちの立ち居振る舞いを見直すということもあるでしょう。

徳岡会長 部屋に入ったら掛物くらい見てほしい。僕らの若いころはそれは当然やったけどな。今はもう時代が変わってしもて、掛物がどうやとかそういうことを言うてくれはるお客さんが少なくなりましたね。せやけど、お茶の世界ではまだ残っています。

華務長 お茶には「常を茶に出せ」「常が茶であれ」という教えがございますけれど、まさにそれを実践しておられるのが徳岡さんで、日本料理にお茶の精神を取り入れ、自然に感謝しつつその恩恵をいただく。それは祈りの世界にも通じることだと思うのですけど、お茶もお花も、道が付いているものの原点は祈りの心、感謝の心、それを生活に生かす気持ち。いいものを見せていただいて、そういう心を磨いていかないといけないということを改めて感じました。

 

■本物を知ることが大事

徳岡会長 親父がヨーロッパを回って、「世界之名物 日本料理」という言葉を使うたのは昭和三十二年。それがやっと世界遺産登録されたのが平成二十五年です。

華務長 こんな話を聞きました。昭和三十年ごろ、両親がいけばなの普及のために外国へ行っていたんです。アメリカで日本大使館にお招きいただいたとき、お食事に吉兆さんのお料理が出てきて、感激して涙が出そうになった、外国で日本の国のことがものすごく誇らしく思えた。日本にいるよりさらにそういう気持ちを強く持ったと、今も話してくれます。そういう誇りを多くの方に持っていただきたいです。

徳岡会長 食べ物の世界も一緒。僕が教えた子にもミシュランの星をもらったのがいますが、星が付いたということにばっかり目が向くんではなしに、本当のことを分かってやってほしいなと思いますね。

華務長 吉兆さんで修行したたくさんの方が、徐々に自分のお店を持っておられますね。

徳岡会長 僕が修行時代についてきてくれた人で、それぞれ独立してやっているのが五人います。料理の修行といったら、今と比べものにならないほど厳しい時代でしたから、当時店に、警策が十本ぶら下がっていたんですけど、そのうち七本まで折れていました。

華務長 厳しい世界の究極には宗教というのがありますね。当流は大覚寺の中にあって、お寺の僧侶の方と袖を触れ合わせるような距離で、お坊さんの所作を間近で見て、読経の声が響く中でいけさせていただいているため、感じることも多く、お寺の中で学ばせていただけることは素晴らしいことだと思っています。日本人は美しいものに触れたらそれを感受する気持ちは絶対あると思いますし、これから多くの人にそういう感性を磨く、自分なりにいいものに触れて見て、感動してほしいなと思います。

徳岡会長 もう二十年くらい前ですけど、「吉兆でご飯食べたら、帰りにもう腹減った」と、そんなことを言うお客さんがあったんです。ウチの材料はフレッシュですから、二時間たったら消化してお腹が空いたような気分になる。二流の食材を使うている料理屋さんやったら、なかなかこなれんと下手すると翌日まで胃がもたれたりしますけど、フレッシュなええもん食べたらお腹が空くのは当たり前なんです。そういう人は掛物もお花も何も見はらへんし、器の良さも分からはらへん。そういう人にとっては(うちの料理は)高いと思いますよ。

華務長 この環境の中にいて何も感じられないというのはもったいないですね。吉兆さんのすべてが美術品だから、ここに寄せてもらうには呼ばれる方にも教養が要(い)ります。

 

■嵐山の思い出

徳岡会長 実は昔、ここ(嵐山吉兆)は児島嘉助という大阪一の道具屋の別荘やったんです。その児島さんに呼ばれて親父が初めてここへ来たとき、もちろん戦前ですけど、六月の夕方に嵐山の駅に着いたら、庭番をしている人と奥さんと二人が迎えにきて、箱提灯(はこぢょうちん)と団扇(うちわ)をくれはったそうです。箱提灯は分かるけど、団扇は何に使うのかと思っていたら、渡月橋に近付くとホタルがいっぱい飛んでて、そのホタルを払うためのものやったと。

華務長 えー、そんなに飛んでたんですか。

徳岡会長 道も松の根がすごく張っていて、店の前まで車が近付けない。車力くらいしか通られへん。ついこの間まで、そんな時代やったんですよ。昔は、大堰川も泳いでもかまへんかったんで、渡月橋の欄干から飛び込んで泳いでました。昼休みになったら向こう岸まで泳いで行って、昼飯食べて往復してました。

華務長 私も泳いでました。子どものころは、鳥居さんの山に上がって遊んだり、面白いとこがいっぱいありましたね。大覚寺のお庭も実は遊び場でしたし。昔は子どもが入って遊んでいても注意されなかったんです。

徳岡会長 いっぱい思い出がありますな。

華務長 そうですね。本日は貴重なお時間を頂戴し、ありがとうございました。

 

京都吉兆 取締役会長・徳岡孝二氏の書籍「最後の料理人」が発刊されました。

https://kyoto-kitcho.com/info/press/572

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